京葉湾岸ポタリング。 [pottering]
千葉でのポタリング最終日は京葉湾岸エリアです。
京葉湾岸エリアは工場や倉庫、大型商業施設にテーマパークが建並び賑やかな場所、
前日までののんびりポタリングとは様子が違います。
そしてその目的地は東京ゲートブリッジが良く見渡せると言う若洲海浜公園にしました。
2004年から建設され8年越しで完成した東京ゲートブリッジは中央防波堤と若洲地区を結び、
全長2,993mで海面からの高さは最大で87.7m、そのスケール感は圧巻の一言です。
当日は開通した東京ゲートブリッジを渡ろうとする車で車道は大渋滞…
そんな渋滞する車をわき目に、自転車はスルスルっと快適に若洲海浜公園に向かえます。
ホントは・・・
東京ゲートブリッジを渡って中央防波堤まで行こうと思っていたのですが軽車両は通行禁止。
一般道だと聞いていたので、てっきり自転車でも通行できるのかと思っていただけに残念でした。
そんな千葉県でのポタリングツアーも、この若洲海浜公園で終了。
無事に完走したご褒美といわんばかりに素敵な夕陽を見ることができました。
今回は車での輪行ポタリングでしたが、次回は自走で千葉まで行ってみようかと思った次第です。
京葉湾岸エリアは工場や倉庫、大型商業施設にテーマパークが建並び賑やかな場所、
前日までののんびりポタリングとは様子が違います。
そしてその目的地は東京ゲートブリッジが良く見渡せると言う若洲海浜公園にしました。
2004年から建設され8年越しで完成した東京ゲートブリッジは中央防波堤と若洲地区を結び、
全長2,993mで海面からの高さは最大で87.7m、そのスケール感は圧巻の一言です。
当日は開通した東京ゲートブリッジを渡ろうとする車で車道は大渋滞…
そんな渋滞する車をわき目に、自転車はスルスルっと快適に若洲海浜公園に向かえます。
ホントは・・・
東京ゲートブリッジを渡って中央防波堤まで行こうと思っていたのですが軽車両は通行禁止。
一般道だと聞いていたので、てっきり自転車でも通行できるのかと思っていただけに残念でした。
そんな千葉県でのポタリングツアーも、この若洲海浜公園で終了。
無事に完走したご褒美といわんばかりに素敵な夕陽を見ることができました。
今回は車での輪行ポタリングでしたが、次回は自走で千葉まで行ってみようかと思った次第です。
九十九里浜・外房ポタリング。 [pottering]
別れたあの夏を 忘れられないの
出逢った瞬間(その時)に この胸がふるえたの
ずいぶんな趣味(このみ)ネって 人は云うけれど
これでも私には 高望みの方だわ
ああ 九十九里浜
夕陽が泣いている♪ パヤパヤ♪
♪思い出の九十九里浜♪ もう20年も前の歌なんですね。
生まれも育ちも神奈川県の私にとって海といえば湘南、サザンやTUBEの印象が強いのですが・・・
実はこの九十九里浜や外房にも思い出があるんです。
てな訳で、南房総ポタのつづきは九十九里浜からポタリングを始めます。
夏の九十九里浜とは違い、ちょっと閑散とした中央海水浴場の浜辺駐車場に車をデポします。
車上荒らしの抑止でしょうか、移動交番ならぬ1BOXタイプの警察車両が巡回していてくれました。
何とも心強いことで、ご苦労様です。
そんな九十九里浜の周辺では、煮干作りが盛んに行われており、
調べてみればイワシの漁獲高は全国の1/3を占めるほどのようです。
おじちゃん、おばちゃんたちがせっせと茹でたてのイワシを干している姿がみられ、
「食べてみるかい?」と言われたものの、何となくちょっと遠慮しちゃいました。
嫌いではないのですがね…ごめんなさい。
で、当日のルートは波乗り道路(九十九里有料道路)と併走する県道の自転車道を走ります。
それにしても千葉県は自転車道がよく整備されています。
地元の方には九十九里ビーチラインと言う名で親しまれているようですが、
緩く湾曲した九十九里浜も道路はほぼ直線、そんなビーチラインも東浪見でR128に合流です。
R128と合流して間もなくすると、ちょっとした丘の上にまたまた灯台が見えます。
その灯台は九十九里浜の南端にあたり、太東埼灯台と言います。
少しだけ坂道を上がり灯台へ、週末には観光客向けに地元特産品の販売所が開かれていました。
そして ♪思い出の九十九里浜♪ のお話になりますが・・・
これまた15年ほど前のことでしょうか、当時大学生だった私は千葉の人と付き合っておりまして、
まさにこの周辺は、久しくもだいぶ慣れ親しんだ場所だったりするのであります。
そしてその当時、よくご飯を食べに行っていた洋食屋にも立ち寄ってみたいなと思っていたら、
ありましたよ!その名も「ワン・ツー・エイト」要するに国道128号線沿いと言うだけのことでしょう。
そしてエビピラフなのにナゼかケチャップライスでホワイトソースがかかるいうお気に入りの一品。
何も変わっていない味と、もう口にする事はないと思っていた味に感動すら覚えました。
そんな大昔の淡い記憶を思い出しながら、たどり着いたのは御宿海水浴場。
この御宿は白浜の海水浴場でとても美しいところ。
童謡“月の沙漠”に登場する2頭のラクダに乗った王子と王女がおります。
私も知らなかったのですが、月の沙漠の「沙」が「砂」ではないのですね。
諸説あるようですが、沙の字には「すなはま」の意味があるとも言われているようですよ。
そんな九十九里浜・外房ポタリングも、懐かしさに寄り道ばかりしていたらすっかり夕刻に…
休暇ですから・・・こんな感じのポタリングで良しなんですよね。 きっと。
出逢った瞬間(その時)に この胸がふるえたの
ずいぶんな趣味(このみ)ネって 人は云うけれど
これでも私には 高望みの方だわ
ああ 九十九里浜
夕陽が泣いている♪ パヤパヤ♪
♪思い出の九十九里浜♪ もう20年も前の歌なんですね。
生まれも育ちも神奈川県の私にとって海といえば湘南、サザンやTUBEの印象が強いのですが・・・
実はこの九十九里浜や外房にも思い出があるんです。
てな訳で、南房総ポタのつづきは九十九里浜からポタリングを始めます。
夏の九十九里浜とは違い、ちょっと閑散とした中央海水浴場の浜辺駐車場に車をデポします。
車上荒らしの抑止でしょうか、移動交番ならぬ1BOXタイプの警察車両が巡回していてくれました。
何とも心強いことで、ご苦労様です。
そんな九十九里浜の周辺では、煮干作りが盛んに行われており、
調べてみればイワシの漁獲高は全国の1/3を占めるほどのようです。
おじちゃん、おばちゃんたちがせっせと茹でたてのイワシを干している姿がみられ、
「食べてみるかい?」と言われたものの、何となくちょっと遠慮しちゃいました。
嫌いではないのですがね…ごめんなさい。
で、当日のルートは波乗り道路(九十九里有料道路)と併走する県道の自転車道を走ります。
それにしても千葉県は自転車道がよく整備されています。
地元の方には九十九里ビーチラインと言う名で親しまれているようですが、
緩く湾曲した九十九里浜も道路はほぼ直線、そんなビーチラインも東浪見でR128に合流です。
R128と合流して間もなくすると、ちょっとした丘の上にまたまた灯台が見えます。
その灯台は九十九里浜の南端にあたり、太東埼灯台と言います。
少しだけ坂道を上がり灯台へ、週末には観光客向けに地元特産品の販売所が開かれていました。
そして ♪思い出の九十九里浜♪ のお話になりますが・・・
これまた15年ほど前のことでしょうか、当時大学生だった私は千葉の人と付き合っておりまして、
まさにこの周辺は、久しくもだいぶ慣れ親しんだ場所だったりするのであります。
そしてその当時、よくご飯を食べに行っていた洋食屋にも立ち寄ってみたいなと思っていたら、
ありましたよ!その名も「ワン・ツー・エイト」要するに国道128号線沿いと言うだけのことでしょう。
そしてエビピラフなのにナゼかケチャップライスでホワイトソースがかかるいうお気に入りの一品。
何も変わっていない味と、もう口にする事はないと思っていた味に感動すら覚えました。
そんな大昔の淡い記憶を思い出しながら、たどり着いたのは御宿海水浴場。
この御宿は白浜の海水浴場でとても美しいところ。
童謡“月の沙漠”に登場する2頭のラクダに乗った王子と王女がおります。
私も知らなかったのですが、月の沙漠の「沙」が「砂」ではないのですね。
諸説あるようですが、沙の字には「すなはま」の意味があるとも言われているようですよ。
そんな九十九里浜・外房ポタリングも、懐かしさに寄り道ばかりしていたらすっかり夕刻に…
休暇ですから・・・こんな感じのポタリングで良しなんですよね。 きっと。
南房総ポタリング。 [pottering]
コンプライアンス休暇後半、三都物語の翌日にはさっそくポタリングにお出かけです。
ここ最近、一段と寒さが増して毎日底冷えしますね。
同じ寒さでも山歩きでしたらレイヤードで調整することもできますが、自転車ではナカナカ…
そこで少しでも温暖な場所を求め、たどり着いたのは房総半島。
予想通り、少し南国な感じが醸しだされておりました。
実際、冬場でも平均気温が10℃以下とはならない温暖な地域なだけあって、
既に菜の花が咲き春の訪れを知らせておりました。
そんな平日の南房総は至ってのんびりしており、
交通量も少なくポタリングしやすい環境。
その道路は房総フラワーライン。
南房総は三方を海に囲まれた土地柄なだけあって、各所に灯台が設置されており、
そんな灯台をランドマークとしながら巡るポタリングが楽しめます。
まずは館山市にある洲埼灯台。
ここは東京湾の入口にあたり、1日600隻を超える船舶の安全航行を担っている灯台です。
また眺めの良い立地にあり、富士山や伊豆半島の遠望も効きます。
そして南房総市に入るとあるのが野島埼灯台。
ここは関東(諸島を除く)の最南端にあたり、日本の灯台50選に選ばれている大きな灯台です。
なんだか私は個人的に端っこが好きなんですよね。
また野島埼灯台の周辺には飲食店も数多くあり、休憩するには良いポイントになります。
ちょうど昼下がり、空腹となった私は呼び込みのおばちゃんに呼び止められ、そのまま入店。
千葉に来たなら金目鯛の煮付けでしょうと注文、予想通り美味しかったです。
当日は単純に海岸線ルートで、途中には海に向かってブランコできる公園なんてのもありました。
ルート上には無料駐車場も多く、車のデポやトイレなんかにも困ることはほぼないと思います。
車輪行にはとても最適な場所かなと。
ここ最近はストイックなヒルクライムが多かったのですが千葉県は平坦ばかり、
更に2月でありながら暖かい陽射しを受けて走れるポタリングは気持ちがいいものです。
そんな南房総ポタリングでは、すっかり日が落ちるまでのんびりしてしまいました。
ここ最近、一段と寒さが増して毎日底冷えしますね。
同じ寒さでも山歩きでしたらレイヤードで調整することもできますが、自転車ではナカナカ…
そこで少しでも温暖な場所を求め、たどり着いたのは房総半島。
予想通り、少し南国な感じが醸しだされておりました。
実際、冬場でも平均気温が10℃以下とはならない温暖な地域なだけあって、
既に菜の花が咲き春の訪れを知らせておりました。
そんな平日の南房総は至ってのんびりしており、
交通量も少なくポタリングしやすい環境。
その道路は房総フラワーライン。
南房総は三方を海に囲まれた土地柄なだけあって、各所に灯台が設置されており、
そんな灯台をランドマークとしながら巡るポタリングが楽しめます。
まずは館山市にある洲埼灯台。
ここは東京湾の入口にあたり、1日600隻を超える船舶の安全航行を担っている灯台です。
また眺めの良い立地にあり、富士山や伊豆半島の遠望も効きます。
そして南房総市に入るとあるのが野島埼灯台。
ここは関東(諸島を除く)の最南端にあたり、日本の灯台50選に選ばれている大きな灯台です。
なんだか私は個人的に端っこが好きなんですよね。
また野島埼灯台の周辺には飲食店も数多くあり、休憩するには良いポイントになります。
ちょうど昼下がり、空腹となった私は呼び込みのおばちゃんに呼び止められ、そのまま入店。
千葉に来たなら金目鯛の煮付けでしょうと注文、予想通り美味しかったです。
当日は単純に海岸線ルートで、途中には海に向かってブランコできる公園なんてのもありました。
ルート上には無料駐車場も多く、車のデポやトイレなんかにも困ることはほぼないと思います。
車輪行にはとても最適な場所かなと。
ここ最近はストイックなヒルクライムが多かったのですが千葉県は平坦ばかり、
更に2月でありながら暖かい陽射しを受けて走れるポタリングは気持ちがいいものです。
そんな南房総ポタリングでは、すっかり日が落ちるまでのんびりしてしまいました。
湯豆腐。 [area]
天保山。 [walking]
三都物語でも一応、山歩きをしてきたんです。
天保山見聞録。
最寄駅は大阪市営地下鉄中央線「大阪港駅」です。
車内自動放送でも「次は、大阪港、大阪港、天保山」と案内されます。
駅周辺は、その昔大坂港の船着場や桟橋として栄えた街ですが今は住宅街。
天保山に向かう道もこんな団地を抜けたりします。
天保山の登山口はこんな感じ、公園みたいですね。
公園内を歩いているとありました、登山道の道標。
山頂まであと110mのようです。
そしてこの緩い登山道を登っていくと…
天保山に到着。
あっ、と言う間です。
そう、ここは日本一低い山。
ちなみに山頂には二等三角点があります。
標高4.53mの築山で、国土地理院の地形図にも山名が掲載されています。
元々、大坂港の浚渫工事で浚った土砂を積み上げた築山で20mくらいの標高だったようです。
しかし、この天保山公園には防潮堤や丘もあり、山頂より高い場所がたくさん存在します。
ちなみに天保山山岳会により山岳救助隊も結成されているが、救難要請はまだないようですね。
これも山歩きです。
天保山見聞録。
最寄駅は大阪市営地下鉄中央線「大阪港駅」です。
車内自動放送でも「次は、大阪港、大阪港、天保山」と案内されます。
駅周辺は、その昔大坂港の船着場や桟橋として栄えた街ですが今は住宅街。
天保山に向かう道もこんな団地を抜けたりします。
天保山の登山口はこんな感じ、公園みたいですね。
公園内を歩いているとありました、登山道の道標。
山頂まであと110mのようです。
そしてこの緩い登山道を登っていくと…
天保山に到着。
あっ、と言う間です。
そう、ここは日本一低い山。
ちなみに山頂には二等三角点があります。
標高4.53mの築山で、国土地理院の地形図にも山名が掲載されています。
元々、大坂港の浚渫工事で浚った土砂を積み上げた築山で20mくらいの標高だったようです。
しかし、この天保山公園には防潮堤や丘もあり、山頂より高い場所がたくさん存在します。
ちなみに天保山山岳会により山岳救助隊も結成されているが、救難要請はまだないようですね。
これも山歩きです。
天下の台所。 [area]
復興に向けて…。 [area]
東日本大震災からそろそろ1年が経とうとしている頃、
阪神淡路大震災からは17年が過ぎていた。
その阪神淡路大震災の復興のシンボルとして神戸市内の三宮東遊園地に設置されている
「1・17希望の灯り」を訪れてみた。
今、この「希望の灯り」を東北の地に分灯する動きが見られているようです。
そしてもう一つ、復興のシンボルと言えば原寸大の鉄人28号。
共の震災とも被災していない私にとって、無責任に多くを語ることは出来ませんが、
復興に向けて人の心には「静」と「動」が必要なのかもしれません。
であれば、“希望の灯り”が「静」の支えで、“鉄人”は「動」の支えのように見えます。
先日、首都直下型の巨大地震が起きやすくなっているとの見解が示されたばかりですが、
私の住む小田原は関東大震災の震源地付近と言われています。
その地震は70年周期と言われており、過去を振り返ると…
1633年:寛永小田原地震(M7.0)
↓(70年後)
1703年:元禄地震(M7.9~M8.2)
↓(79年後)
1782年:天明小田原地震(M7.0)
↓(71年後)
1853年:嘉永小田原地震(M6.7)
↓(70年後)
1923年:関東大震災(M7.9)
↓(89年経過)
現在
備え、心構えは必要でしょうね。
阪神淡路大震災からは17年が過ぎていた。
その阪神淡路大震災の復興のシンボルとして神戸市内の三宮東遊園地に設置されている
「1・17希望の灯り」を訪れてみた。
今、この「希望の灯り」を東北の地に分灯する動きが見られているようです。
そしてもう一つ、復興のシンボルと言えば原寸大の鉄人28号。
共の震災とも被災していない私にとって、無責任に多くを語ることは出来ませんが、
復興に向けて人の心には「静」と「動」が必要なのかもしれません。
であれば、“希望の灯り”が「静」の支えで、“鉄人”は「動」の支えのように見えます。
先日、首都直下型の巨大地震が起きやすくなっているとの見解が示されたばかりですが、
私の住む小田原は関東大震災の震源地付近と言われています。
その地震は70年周期と言われており、過去を振り返ると…
1633年:寛永小田原地震(M7.0)
↓(70年後)
1703年:元禄地震(M7.9~M8.2)
↓(79年後)
1782年:天明小田原地震(M7.0)
↓(71年後)
1853年:嘉永小田原地震(M6.7)
↓(70年後)
1923年:関東大震災(M7.9)
↓(89年経過)
現在
備え、心構えは必要でしょうね。
異人館。 [area]
先週のコンプライアンス休暇前半に出かけた三都物語初日のお話。
神戸には異国情緒豊かな明治期建築の洋館が建ち並んでいます。
時の頃、1858年(安政5年)に日米修好通商条約の批准により、後に神戸港が開港され、
鎖国状態であった日本に外国人居留地が設けられ、外国文化がどっと流れ込んできたようです。
当時は日本側に厳しい不平等条約であった日米修好通商条約が、
平成の今、振り返ることで当時の異国文化を知る観光地となったもの皮肉なものですね。
そんな洋館には意匠が凝らされた重厚なアンティーク家具が並び、
甲冑などをインテリアとして飾り、
当時は仕事道具であっただろうタイプライターも、今となってはインテリアです。
なかでも調度品には生活感を感じるものが多く、
お酒を楽しむ社交場としての空間には、とびきりセンスが光っています。
更には調理場を公開しているところもあり、
明治期とは思えない文化を感じることができます。
そんな調度品もフランスの老舗ブランドが作るスーツケースで運ばれていたようで、
古今、良きモノは時代に流されず愛されると言うことを象徴しているかのようです。
このような歴史の証人でもある異人館も、最盛期には100棟以上建ち並んでいたようですが、
戦火や都市計画、老朽化に災害等によって姿を消し、今では20数棟だけとなってしまったようです。
現代日本の街並は、あまりにも広告看板に満ち溢れ落ち着きのなさを感じます。
この中途半端に取り入れてしまった資本主義偏重の街並みを変えていきたいですね。
神戸には異国情緒豊かな明治期建築の洋館が建ち並んでいます。
時の頃、1858年(安政5年)に日米修好通商条約の批准により、後に神戸港が開港され、
鎖国状態であった日本に外国人居留地が設けられ、外国文化がどっと流れ込んできたようです。
当時は日本側に厳しい不平等条約であった日米修好通商条約が、
平成の今、振り返ることで当時の異国文化を知る観光地となったもの皮肉なものですね。
そんな洋館には意匠が凝らされた重厚なアンティーク家具が並び、
甲冑などをインテリアとして飾り、
当時は仕事道具であっただろうタイプライターも、今となってはインテリアです。
なかでも調度品には生活感を感じるものが多く、
お酒を楽しむ社交場としての空間には、とびきりセンスが光っています。
更には調理場を公開しているところもあり、
明治期とは思えない文化を感じることができます。
そんな調度品もフランスの老舗ブランドが作るスーツケースで運ばれていたようで、
古今、良きモノは時代に流されず愛されると言うことを象徴しているかのようです。
このような歴史の証人でもある異人館も、最盛期には100棟以上建ち並んでいたようですが、
戦火や都市計画、老朽化に災害等によって姿を消し、今では20数棟だけとなってしまったようです。
現代日本の街並は、あまりにも広告看板に満ち溢れ落ち着きのなさを感じます。
この中途半端に取り入れてしまった資本主義偏重の街並みを変えていきたいですね。